序文 ― 旧仮名を知らない子供たち 押井 徳馬  先日、東京駅丸の内駅舎の見物に出掛けて来ました。約七十年ぶりに大正当時の三階建とドーム屋根の姿に復原された東京駅。路上にも駅舎内にも大勢の見物客がゐました。戦前の姿を知る年配の観光客が多いかと思ひきや、意外な事に、どこを見ても二十代前後の若者達が半分位を占めてゐて、スマートフォンや一眼レフカメラを手に写真を撮つたり、装ひ新たにした駅舎の完成を祝福するかのやうに、嬉しさうに声を上げながら眺めてゐる姿をあちこちで見掛けました。  戦後生れの人々にとつて、大正当時の姿の丸の内駅舎とは、白黒写真といふ「手を触れる事の出来ない、二次元空間内の存在」に過ぎなかつただけでなく、「二階建てに八角形の屋根」が「東京駅として当り前の姿」だと長らく思ひ込んでゐたものです。しかし、ドーム屋根の三階建てが三次元空間の実際の建物として蘇つた今、「これまで見てゐた駅舎は飽くまでも仮の姿で、本来はこんな姿だつたんだ!」と驚いただけでなく、大正時代の設計なのに「古びてゐる」印象など殆ど無く、今なほ「高級感」を感じるデザインなのが何とも新鮮でした。  さて、「歴史的仮名遣が現役で使はれてゐる姿」も、東京駅丸の内駅舎の本来の姿と同じく、次第に忘れ去られようとしてゐます。  私のやうな団塊ジュニア世代だと、祖父母が「旧字旧かな」を日常的に用ゐる姿を見るのは、決して珍しい事ではありませんでした。年配の人が経営してゐる商店では、店内の掲示が正字正かなになつてゐるのは時々見掛ける風景でした。私の祖父も一生涯正字正かなで書き続けてきた人で、家族宛の手紙となると、所々に変体仮名も混ざつた達筆の行書で書かれてゐるのを、母が「解読」しながら読むといつた具合でした。私も「解読」したいと思ひつゝも、子供には無理だと思はれたのか、あまり読ませてもらへず残念に思つたものです。このやうに、戦後世代でも「旧字旧かな」に日常的に接してゐた人々は、書く事は自信が無いが、少しくらゐなら読める、と云ふ事が多いものです。  しかし、今では祖父母も戦後教育世代といふ人が多くなりました。昔のフォークソングの題名を捩つて云ふなら「旧仮名を知らない子供たち」です。「元々はかう書くんだ」と、祖父母が正字や正かなを教へてくれる事はありません。正字正かなの祖父母の蔵書を「わあすごい」と言ひながらペラペラめくる事もありません。歴史的仮名遣に接するのは国語の古文の授業だけで、現代文の歴史的仮名遣の存在など知りません。夏目漱石や芥川龍之介も現代仮名遣に変へられた版しか見た事が無いので、「戦前は文語文は旧仮名遣で、口語文は最初から新仮名遣だつた」と誤解してゐる人さへゐます。決して少くない人々が新字新かなに抵抗して正字正かなを使ひ続けてきた歴史も忘れられつゝあり、「現代仮名遣は戦後の民主化政策の一環で自由の象徴」「歴史的仮名遣から現代仮名遣への移行はバトンリレーのやうにスムーズに平和裡に行はれた」と思ひ込んでゐる人ばかりです。  歴史的仮名遣で現代文を書く人々は、昔も今も非難される事がありましたが、最近はその内容も変つてきてゐるのを感じます。「現代人として、現代仮名遣を使うのが当然だ」の類は昔からよく聞いたものですが、「歴史的仮名遣は文語体の古文の為のもので、口語体の現代文を書くのは日本語として変だ」などと云ふ主張は、かつてあまり聞かなかつたものです。正字正かなで書く人を「最新の教養に付いていけない、遅れた知識の持ち主」と見下す態度の代りに、「旧字旧仮名で書いて見せびらかすのは衒学的だ、知識のひけらかしだ」の類の非難を受ける事が多いのも新しい傾向です。  「デザインが古風なのに屋根も壁も天井もピカピカの新しい建材だらけなのは変だ」とか「大正当時の姿に戻すなら、自動改札も新幹線も廃止して硬券や蒸気機関車に戻せ」等と無粋な事を言ふ人が殆ど居らず、本来の姿を取り戻した事を純粋に喜ぶ人ばかりだつた、丸の内駅舎の復原。東京駅は「二階建てに八角形の屋根」が「当然」と思ひ込み、大正当時の姿に復原する意味がわからない、と思ひ込んでゐた戦後生まれの人々も、実際に復元工事が完了すると、これまで知らなかつたその姿に惚れ込んで仕舞ひました。  この復原工事とは、単に「昔の姿に戻す」だけではなく、設計者である辰野金吾の「日本の鉄道の玄関口はかうあるべきだ」と云ふ思想を再び具現化し、後世に伝へていく事でもあるのかも知れません。  ところで、たゞ眺めたり写真を撮れば良い建物に比べ、自ら覚え直すコストの求められる正字や正かなの復古は、一般の人にとつて、心理的なハードルからして高いものかも知れません。しかし、先づは出来る人が出来る範囲で実践してみて、「国語改革以前の、国語の本来の姿」を、実際の形として残す事、そして「歴史的仮名遣が現役で使はれてゐる姿」を知らない人にも知つてもらふ事が大切だと思つてゐます。たゞ「昔の姿に戻す」だけの復古ではなく、先人達の「国語とはかうあるべきだ」と云ふ思想を具現化し、後世に伝へていく。その為の場所の一つとして、この「正かな同人誌」を今後も続けていきたいと思つてゐます。